おかべあさみのブログ

クラリネットを吹いています。アレクサンダー・テクニークの資格(ATI)を取るためSelf Quest Lab在籍。

習慣についての自己探究

こんにちは。

今回は「習慣」についての経験と探究をお話ししたいと思います☕️

 

遡ればわたしは、特に音大を受験しようと思ったあたりから演奏するときの身体の痛みや、固さ、緊張やストレスというものをいくつも抱えていました。

当時心の中にはいつも「痛みなく、ストレスなく、自分が目指すいい演奏をしていきたい」という望みがありました。今もその想いはベースにあり、その時々自分の中で言葉を変えつつ、原動力として活動しています。

そんな理由でアレクサンダー・テクニークを本格的に学び出して、意識的・建設的な動き/思考が「こうなりたい」という自分の望みに対してとても役立つということはわかっていましたが、わたしにはなかなかそれを選択できない時期が長くありました。

アレクサンダー・テクニークのレッスンの場に行っても、グループレッスンでのアクティビティで手を挙げられなかったり、思っている意見を言えなかったり。

 

最近よく考えるんですが、

「それを選べない、選べなかった、選びたくなかった、矛盾した自分」とは。

心身に余裕があるときにそのフタを少し開けてみると、

・「自分なんて」「恥ずかしい」といういつからかわからないほど前からあった自己否定的な思考

・「これ、どう思われるかな?」という人からの視線に対する不安

・「うまくやらなきゃいけない」という完璧主義的思い込み

・「できた/できない」で価値をつける物の見方

・周りと自分を比較して優劣をつけて叱咤するやり方

・新しいものを選んで自分が変わることへの怖さ、めんどくささ

 

(たくさん出てくる👏そして今思うと、あれ、かわいそうな人がいるな?あらま、自分だった。よしよし。。あなたの先生誰よ?あ、自分だった。よしよし。。ですが)

 

そんな"非建設的な概念"がわたしの心身の奥底にずっとありました。

おそらくこれが、長い時間をかけて培ってきていた慣れた、馴染んだ、当たり前の思考と動きの習慣で、やりたいことへの困難を生み出していました。

 

さて。

これを書きながらも少し心はザワついてきて、指先がちょっと冷たくなってきました。(THE習慣)そんな時はふーっと一呼吸おいてコーヒーでも飲みます☕️よければどうぞご一緒に。

〜〜〜コーヒータイム☕️〜〜〜

 

いまこうしてこの話をしているのは、アレクサンダー・テクニークの学びを通して心身の質が変わり続けていているから、とも言えます。

アレクサンダー・テクニークは、"不必要な心身の緊張をやめていき、やりたいこと(望み)に近づくアプローチを学ぶワーク"と、前にFacebookに書いた記憶がありますが、

自分のためにすこし付け足したいな〜と思います。

"やりたいこと(望み)があって、それに必要なことを起こすために意図することを自立的に育てていくワーク。"

もう少し詳しく言うと、

"新しいプラン(アイデア)によって脳からの指令を意図的に変えることに取り組むことで、習慣的な身体の動きや思考に変化が起こり、更新されていく。"

このようなプロセスがあると思っています。

 

 

安全な環境で好奇心を軸にすると、人は叱咤激励なしでも、学び、成長します。(子どもとかそうですね👦🧒)

その学びの道の途中で、当然、習慣的な思考回路/身体の使い方の癖があるのに気づきます。

そのときに、非建設的な批判を投げかけてくる"習慣警察"のような自分がいると、とてもしんどいですよね。

なんだか暇なのかな?いつでも習慣を探していて、見つけたら笛をピーっと吹いて「アレクサンダーなんちゃらをやっているのに、きみはこんなにもたくさんのよくない習慣をやっちゃってるねぇ、だめだねぇ」とか言って取り締まってくるんですよ。しんどい。

そんな時は早急に習慣警察のわたしにはお帰りいただき、代わりにフェアな視点で向き合ってくれる超建設的な最高の先生(わたし)を雇います。しかも自分自身なのでお金はかかりません。(やったー)

 

習慣は、誰しも持っていて、いつでも自分と一緒に存在しているものだといえます。

「いつもこうなっちゃう」「全く変えられない」「わかっちゃいるのに変えられない」ことはたくさんあります。

そんな時は、いまの自分が選べる範囲、理解できる範囲、安全を確保して進める範囲で、意図するプラン(アイデア)を決める。そして身体の軸や全体を思い出しながら、試してみる。途中でやめてもいい。

さっきのようにコーヒーを飲んで、ふ〜っとするのもいい☕️

 

・・・どうでしょうか。

丁寧でフェアな視点で自分を見つめ、選択肢を増やし、心身共に安全な範囲を少しずつ広げていくことで、気づきの感度レベルは上がっていきます。

その過程があれば、習慣的な考え方や、身体の動きの習慣を変えていくことができ、心身を包括的に見ることができるようになっていくのです。

 

そして、書きながら気づきましたが、習慣は今までの自分をカタチづくってきた歴史であり、自分を守ってくれていたスキルとも言えます。どんなやり方だとしても、そのおかげで今まで生きてこれたわけです。

その存在を蔑ろにするのではなく、ちょっと広い心で受け入れて向き合えたら、根深い習慣ともなんだか楽しく付き合えそうな気がします。

(めでたし👏)

 

それではまた☕️